金魚鉢

デザインフェスタ 第六〇
十一月十六日(土)・十七(日)
東京ビッグサイト 西館四階 暗いエリアL⁻32

帰りの電車を待つまでのわずかな時間。
ふと頭に浮かぶ記憶がある。
 秋祭りの夜、ちょうちんの明かりに照らされながら楽しんだ金魚すくい。あの日、すくったはずの、まだら模様の金魚のことだ。
 しかし、そのあと金魚をどうしたのか、俺はまったく思い出せない。
 社会人になって数年、地元の寂れた乗り換え駅で、帰りの電車を待っていた。
 空に残った茜色が、薄く長い影をプラットホームにおとす。それをぼんやり眺めながら、時折吹く肌寒い風に肩をすぼめた。
 向かいの山に視線を移しながら、幼い頃、秋祭りですくった金魚のことを思い浮かべる。 白地に、赤とほんの少し黒が混ざった、まだら模様の金魚が泳いでいて、心惹かれたのを覚えている。頭の形が他の金魚と少しだけ変わっていた。
 そういえば、あの金魚をすくったあと、どうしたっけ?
 家に持ち帰って、用意してもらった水槽でしばらく飼っていたはずだが、そのあたりの記憶が朧気で思い出せない。
 ぼんやりと過去の記憶を辿っているうちに、電車の音が迫ってきた。
 ホームにやってきた車両を見て、思わず「お、懐かしい」という言葉が出た。
 学生時代、よく利用していたときの古い車両がホームに停まったのだ。
 最近は、銀色に水色と緑っぽい線が入ったカラーリングだが、目の前の車両は、下半分が白く、残り半分が赤いカラーリングの車両だ。しかも、当時と同じ一両編成だ。
 懐かしさに心が軽く躍り、開いた後方のドアから中に入ると、少しカビ臭い湿った空気が鼻をくすぐる。入ってすぐ一番端に腰掛けて、年季の入った赤いロングシートの表面を、こっそり撫でた。
 もう何年も前に引退したはずの車両が走っているのは、何かそういうイベントでもあったのだろうか。頭の片隅でそう思いながら、周りを見渡すと、不思議なことに、俺以外の乗客の姿はなかった。
 田舎町とはいえ、普段はもう少し帰路につく学生やら社会人がまばらにいるが、今日は俺しか乗っていない。
 そんなこともあるのかと、少し不思議に思ったが、久しぶりに乗る車両を貸し切っているような優越感が徐々に胸を満たしていく。
 とはいえ、普段から電車に興味がある訳でもないので、その興味はすぐにスマートフォンへと移った。
 五分もしないうちに発車ベルが鳴り、前後にそれぞれ一つのずつある扉の閉まる音がして、ゆっくりと動き出した。
 線路を走る規則的な音を聞きながら、エンタメニュースを流し見する。やがて、画面が読み込み中のままフリーズしたので、更新してみたが、一向に画面が表示がされない。
 よく見ると圏外の表示。そんな馬鹿な。
 ほぼ毎日電車内で使用しているが、圏外になったことなど経験がない。
 ダメ元で一度、電源を切ったとき、電車がトンネルに入って窓の外が暗くなった。電源ボタンを長押しするが、起動しない画面を見つめ、半年前に買い換えたばかりだというのに憂鬱な気持ちになった。 画面は暗いまま、一向に動く気配はない。明日、修理に出す算段を脳内でしつつ、何気なく視線を上げた。
 乗り換え駅から最寄り駅までの間は、大して長くないトンネルが三つ続く。
 しかし、外の景色が一向に見えない。こんなに長かったかなと、何気なく視線を進行方向に滑らせたときだった。外が暗いせいで、窓ガラスが鏡のように車内を写し出していた。
 この古い車両は座席が左右に向かい合わせに配置されたロングシートなのだが、俺と同じ並びにあるシートの先頭側に、変わった形の帽子を被った女性が座っているのが写った。 一瞬、驚いて息が詰まった。
 いつの間に人が乗車していたのだろうか。大きな独り言を言わなくてよかったと、驚いた気持ちを落ち着かせるために、内心、そんなことを思う。
 窓越しに、気づかれないように女性をそっと盗み見た。
 女優帽とも似ても似つかない変わった形の帽子は、白と赤のまだら模様で、つばが大きく、とにかく派手だった。 服装は裾の長い白のワンピースのように見えたが、ドレスだった。
 それにしても、田舎ではめったに見かけない格好に、好奇心が膨らむ。しかもドレス姿。
 明日、会社で話のネタにでもしようと思ったが、隠し撮りするわけにもいかないので、せめてどんな顔か見てみたい気持ちが膨らんで、一向に電源の入らないスマートフォンを見るふりをしながら、視線は窓の方に向ける。
 女性が、窓越しにこちらに顔を向けていた。 顔の半分は、派手な帽子で隠れていたので、本当にこちらを見ていたかは定かではない。思わず視線を外したので、証拠もない。
 なんとなく、もう一度そちら側を見る気にはなれなかった。
 二人しか乗車していない上に、窓の外は暗いまま。暇を潰すものがなければ、見るものも限られるだろうし、こちらも相手を見ようとしていたのだ。向こうもこちらを見ていてもおかしくはない。
 ブレーキがかかったのか、身体が進行方向に少し傾く。やがて甲高い音を立てて、電車は停車した。窓の外は暗いままだ。
 戸惑いを覚えながら、キョロキョロしていると、エアブレーキの空気が抜ける音がして、すぐ隣の後方ドアが開く。
 振り返って窓の外を見ると、車内の明かりがぼんやりと外の景色を映し出す。
 ホームの石畳がちらりと見えるが、奥の方は明かりが一つもなく、木々が鬱蒼と生えているように見えた。
 知らぬ間に陽が落ちたのか、暗闇にかすかに駅の看板が白く浮かんで見えるが、街灯や照明もないため、文字が読めない。
 何年も通勤で利用しているが、こんな駅は見たことがないし、乗り間違えるはずもない。 不安な気持ちで腰を上げてドアから半身だけ外に出して確認する。
 何もない、ひび割れた地面の隙間から雑草が生えた暗いホームは、丁度、一両分の長さしかない、狭く短いホームだった。
 一瞬、某掲示板で有名な、とある駅の名前が脳裏に浮かぶ。
 さすがにホームに降りる勇気は出なくて、そっと身体を車内に戻して、女性のいる方を見た。
 先ほどと変わらず、端の席に座っている。外を気にしている様子もない。一人じゃない状況に、ほんの少し安堵して、席に戻った。
 腰を下ろした瞬間、予告なくドアが一気に閉まった。あまりの勢いに驚いてドアを見る。 耳鳴りがするほどの静寂。自分の心臓の音がうるさい。ゆっくりと電車が動き出したので、そこでようやく息を吐いた。
 無意識に息を止めていたらしい。背もたれに背中をあずけて、先ほどから起こる不可思議な出来事を思い返す。
 よく考えて見れば、行き先を告げるアナウンスも流れていなかった。何かおかしい。
 夢でも見ているのかと額を掻きながら軽く頭を叩く。しっかり感覚はある。夢ではない。
 と、不意に正面の窓に視線をやったときだった。窓の外から覗く巨大な目玉と目が合った。
 一瞬にして鳥肌が全身を走る。身体が強ばって、ようやく脳に危険が伴っていることが伝わった。
 息が詰まり、浅い呼吸を何度も繰り返す。立ち上がろうとするも足がうまく動かず、ずり落ちそうになる身体を必死に支えながら、這うようにしてゆっくりと後ろを向いた。
 ありえない。目の前の光景が、現実だとは信じられなかった。
浅くなった呼吸のまま、逃げる場所を探して、必死に巨大目玉と視線が合わないよう、車内を見渡す。
 前方にいた女性のことを思い出してそちらを見る。彼女はこちらを向いて佇んでいた。
 ただその姿は異常だった。天井から逆さにぶら下がっていた。
 重力をまるで無視したような姿に、脳がキャパオーバーになり、出したことのない声が自分の口から漏れ出た。
 ゆらりと長い裾を揺らしながら、逆さのそいつが、こちらへ近づいてくる。 
 派手な帽子だと思っていたのは、花だった。巨大な花が、頭に生えている。こちらに向かって動くたびに、めしべやおしべにあたる、花の中心が仄かに発光し、細かくうねうね動いているのを見て、気を失いたくなった。
 這いずるように車両の後ろまで下がったが、一番後ろに近い席に座っていたので、無情にも、すぐに運転台の前に到着してしまう。
 見たくもないのに、どこまで近づいたのか気になって、見上げると、もう残り三分の一ほどの位置まで近づいていた。
 先ほどより、花のまだら模様が血のように鮮明に見えて、背中の中心から首筋にかけて悪寒が走った。
 赤い口紅が引かれた唇が動いて、何か喋っているようだが、何を言っているのかまでは聞き取れない。
 ゆっくりした動作で、広がっていた袖の間から赤い手袋のはめられた腕が現れて、こちらへ伸ばされる。あれに捕まってはダメだと本能的に思った。
 隅の方まで横にズレながら逃げ、必死に距離をとれる先を探していると、手に湿った感触が伝わった。
 見ると、床に水がたまっていた。
 気がつかなかったが、あらゆる隙間や穴から水がジャバジャバとあふれ出ている。そこで初めて水音を認識して、その勢いに俺は完全にパニックになった。
 夢ならばこんな生暖かく、リアルな水の感触や、淀んだ水独特の、泥や湿気を含んだ匂いはしない。
 何が起こっているのか理解できないまま。意味もなく、自分の周りの水量を少しでも減らそうと手で水をかいた。
 ぬたっと湿り気を帯びた生ぬるい何かが、頬に触れた感触がして、身体が固まる。照明が遮られてできた影が、自分に落ちていることに気がついて、アレが真上にいることがわかった。
 自分の奥歯がガタガタと音を鳴らしているのを初めて聞く。こちらを見ろと誘われるように、額に少しだけかかった前髪に、何かが触れる感覚がする。
 腰まで水に浸かった身体が、ガタガタと震えた。そのたびにバシャバシャと水がはねる。
 突然、両頬を力強く湿った手で挟まれると、力尽くで上へ向かせようとするのがわかり、必死になって抵抗した。びくともしなかった。 感じる淀水の匂いが更に濃くなっていく。いつの間にか胸のあたりまで水が達して、バタつかせた足が、水の抵抗を感じる。
 目の前で広がる花弁の隙間から、赤い唇が嬉しそうに笑ったのが見えたと思ったら、とうとう水が全身を覆った。
 女の姿が歪む。花のまだら模様が目に焼き付く。どこかで見た。白と赤、そして所々に黒も混ざったまだら模様。再び、あの秋祭りの記憶がよみがえる。金魚の模様だ。
 やがて目の前には人の大きさほどもある巨大な金魚が、逆さになって現れた。
 頭に、巨大な花を咲かせながら、金魚が口をパクパクと動かしている。聞こえるはずのない女の声が「みつけた」と繰り返す。
 息が苦しくなって、もうだめだと思った瞬間、身体を包んでいた生暖かい水の感触がなくなり、ドッと身体が重力を感じた。
 久しぶりに感じる酸素にゼエゼエと出したことのない音を立てて必死に息をする。暗かった視界がぼんやりと焦点が合っていくと、白線が目に入った。目だけ動かし、先ほどの化け物がいないかを確認すると、そこは電車に乗る前の、乗り換え駅のホームだった。
 まだ夕日が落ちきっていない、茜色の空と、駅舎の明るい照明にめまいを感じる。
 ホームには学生や社会人など、人がまばらにいた。皆、不審な人を見る目でこちらを見ている。その視線でさえ、今の俺を安心させるには十分だった。
 二人組のおじさんが近づいて、大丈夫か聞いてきたので、息を整えながら、うなずいて大丈夫であることを伝える。
 変な夢でも見たのだ。よかった。
 もう一度大きく息を吸ってゆっくりとはく。遅れてやってきた気恥ずかしさを感じて、自嘲気味に笑いそうになったときだった。
 視界の端に、ひらりとまだら模様の何かが見えた。
 反射的にそこを見たが、何もない。いつもの駅の景色が広がっているだけだった。不安が脳裏をよぎる。おびえながら帰路についたが、結局、その日は何も起こらなかった。
 一体あれは何だったのだろうか。本当にただの夢だったのだろうか。
 しかし、あれ以来、ときどき視界の端にまだら模様が見える気がする。忘れることを許さないかのように、不規則に視界の端にあらわれるそれに、未だに答えが出せないまま、今日も電車に揺られながら帰路についた。

story/らいだー
art direction/やまぐちもも
Photo:ryugenkubota


10月17日配信